興禅寺
圓瀧山光明院興禅寺といい、天台宗のお寺です。
横浜市港北区高田町にあり、853年(仁寿3年)開山しました。
立派な山門があり仁王像や六地蔵横浜七福神の福禄寿の石像など見応えがあります。
山門が真南よりわずかですが西を向いているのが気になりました。
普通は東から南の間です。
寺の外側を一周したら、東南に旧表大門跡の石碑がありました。
土地区画整理か何かが、あったのでしょうか。
詳しいことは分かりませんが、理解は出来ました。
境内には、歴史を感じさせるいろいろなものや名木古木がありました。
複数の紋も確認できました。
三諦星(さんたいせい)は天台宗の宗紋です。
笹竜胆(ささりんどう)は寺紋でしょうか。とすれば村上源氏と関係があるのでしょうか。
三つ葉葵(みつばあおい)が灯籠に着いていました。徳川または松平との関係は何かあったのか。
卍(まんじ)は正逆両方(Z向き、S向き)有りました。これは建物を左右シンメトリーにするためのデザインに思えました。
三つ巴(みつどもえ)は神社仏閣の定番です。山門の瓦にありました。ただこれも左右(時計回り、反時計回り)両方有ります。屋根の上下でデザインを使い分けたのでしょうか。
こういう色々と思いをめぐらせることができる場所が好きです。
なんにせよ、それだけ歴史があるということでしょう。
セビロの未来予想図 日本人が着る最上級の礼服は何か?
セビロの未来予想図
日本人が着る最上級の礼服は何か?
日本のフォーマルウェア
江戸時代まで和服を着ていた日本人が、明治維新後に洋服を着始めておおむね150年ほど経ちました。
平服はもちろん洋式礼服も、日本政府は、積極的に導入してきました。
その結果、今日の日本人のスーツの着こなしは、世界的にみてまずまず合格点を与えられるレベルだと思います。
しかしながら、日本における洋式礼装はどうでしょうか。
フォーマルウェアのルールってホントのところ何が正しいのか、昼と夜で何をどう着替えるべきなのか、イマイチ分かりづらいところもあります。
この礼服の決まり事について、ファッション業界の人たちと話しをしても三者三様の話を聞かされます。
もちろん、ファッション業界の人間が、必ずしもフォーマルウェアの歴史に精通しているとは限りません。
それにしても、ファッションに携わる人たちがです。
なぜ三者三様になってしまうのでしょうか。
これでは、一般の人々には、フォーマルウエアのルールが、理解不能なのは致し方ないことになります。
それでは、ヨーロッパの人々は、どういうルールにのっとって、フォーマルウエアを着こなしているのでしょうか。
そこで、礼服の中でも男性が着るべき正礼装の着こなしについて、TPOの中でも昼と夜で着分けることを中心に、まず三通りの考え方を述べていきます。
次に、19世紀以降の欧米と日本の歴史を踏まえて礼服について検証していきます。
最後に、今までは何が正しかったのか、そして今後、日本の男性は正礼装で何をどう着こなせばいいのかを、考えていきます。
三通りの考え方
・その1 礼服は、昼と夜で着分けるのが正しい
モーニングコートやディレクターズスーツは、昼間に映えます。
光りモノは避けながらも、カラフルなモノをワンポイントに加えれば、昼の礼装としてぴったりです。
燕尾服やタキシードは、夜が似合います。
ジャケットの襟の拝絹やエナメルの靴は、夜の光に映えるように出来ています。
ほとんどの人は、アフターファイブという単語を、知っていると思います。
私は、紳士服店に長く勤めていました。
私自身と多くの先輩や同僚、また、他のメンズショップで働くスタッフの多くも、昼と夜で着分けるのが、カッコイイと思っています。
・その2 礼服は、式典と宴で着分けるのが正しい
式典にふさわしいモーニングコートは、結婚式に新郎が着ると映えますよね。
宴にはやっぱり燕尾服でしょう。
晩餐会や音楽会にふさわしいです。
だからまれに、式典が夜から始まるにしてもモーニングを着るべきであり、朝や昼間でも宴なら、正しい礼服は燕尾服です。
話の前半は筋論ですよね。納得できます。
東京や横浜にある老舗テーラーの大先輩の方々からも、聴く話です。
けれども、話の後半はどうも腑に落ちない。
ただしこれは、日本人の働き方の問題であって、昼間しっかり働き、夜は自分を充実させる時間に充てれば解決します。
少しだけ考えてほしい。
組閣とはいえ往々にして夜中に新大臣たちが集まって記念撮影の為に、モーニングコートを着ますよね、ここがおかしいんです。
メディアの人たちも残業ですよね。
ナマで観ている我々も寝不足です。
朝の9時から夕方5時の間に済ませられるように、ぜひとも新大臣たちには、自分たちの働き方改革を進めていただきたい。
本来、二つの問題は対立するのではなくリンクするものです。
しかしながらファション業界の方々は、この問題を話し始めるといつもカンカンガクガクで一向にらちがあきません。
結論が出ません。
でもじつは、それには次の “日本独自の問題” が絡んでくるからなんです。
・その3 礼服は、行事の大小で着分けるのが正しい
明治4年(1871年)に新政府である太政官が、廃藩置県を断行し、散髪脱刀令という法令を出しました。
翌明治5年(1872年)には大礼服、通常礼服(燕尾服、小礼服ともいう)を制定します。
これにより明治の日本人はヨーロッパに起源を持つ洋服による礼服を、昼か夜かではなく、式典か宴かでもなく、行事の大小、格式の上下で着分けることになりました。
元々日本での和式礼装はこのような決まりごとです。
日本人は、昼と夜で着分ける習慣がありません。
加えていえば和式礼服は、身分を表すものです。
小川直子氏の著書『フロックコートと羽織袴 礼服規範の形成と近代日本』(勁草書房)によれば、『「通常礼服」として制定された衣服形態(上衣前面のウエスト部分がカットされ、背中から尻にかけては長めの裾を有する形)は、欧米の作法に倣えば「夜会服」であって、午前および昼間の行事に着用するべき服装ではなかったことから、当時、欧米視察から戻った政府上層部や外務省の面々はそれらを問題視した。』とあります。
その解決のため、明治10年(1877年)に通常服(フロックコート)が昼の通常礼服として換用出来るようになりました。
本来ならこの明治という時代にインターナショナルなプロトコールを日本国民に知ってもらうために洋装化を推し進めればよかったはずです。
事実、明治初期の日本政府は暗中模索を繰り返しながら、欧米の風俗風習を見習って取り入れようとしました。
しかしここ日本では、そもそも時間帯によって服を着分ける習慣がありません。どうにも上手くいかなかったようです。
試行錯誤の末、残念ながら、明治20年頃から洋服のフォーマルウエアを使いながら、日本国内専用のドメスティックルールとでもいうべき日本的な規則にシフトしていくことになります。
日本独自規格でガラパゴス化する。
ニッポンアルアルですよね。
でも「ここは日本だぞ!日本人はそもそも昼と夜で服を着分ける習慣がない。だから日本人が日本国内において日本に合うルールを作って何がおかしい」、「とにかく日本政府が決めたんだから、日本人はその通りにするのが正しいんだ」、という考え方もあります。
しかしながら「洋服って西洋服の略ですよね。だから最低限西洋人に笑われない格好をしましょうよ、和服じゃないんだから」、とも言える。
ちなみに19世紀の欧米が舞台の洋画や海外ドラマを観ると、1800~1830年代では、燕尾服の原型のような服、すなわち初期のテールコートを、昼間から着ています。
それが1860~1870年代ではほぼ現代の燕尾服(イブニングテールコート)の形になり夜会服になっている。
洋画や海外ドラマの時代考証が正しければ、欧米では1850年頃に燕尾服が夜会服として着られる習慣が出来たことになります。
もしかしたら明治の初期に、日本における規則を作った人たちは、1850年前後の欧米において、テールコートが夜会服に進化して燕尾服(イブニングテールコート)になった成り立ちを、咀嚼しきれず決めてしまったのではないか。
そして日本人は、一度決めたルールをなかなか変えられない、という国民性も加わったのではないか。
そういう仮説も、完全には否定できません。
もっとも日本における礼服の決まり事は、日本が1870年代に決めたことなので、上記の仮説は、可能性としては低いかなと思います。
1800年当時は、初期のテールコートのことを、カットインコートまたはチェックインフロックコート、などと呼んでいました。
ところが現在においては、18世紀末から現代に至るまでの間の、裾が燕の尾のようなコートを総称して、テールコートと呼んでいます。
なので、ここでも総称として呼ぶときは、「テールコート」を使います。
また、このテールコートの明治時代の和訳が、「燕尾」なのです。
少々ややこしくなってきましたね。
そこで、現代の夜会服である燕尾服には「イブニングテールコート」とイブニングを付けて区別します。
ルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画『山猫』(1963年)は、1860年代、現在の南イタリアにあるシチリア島が舞台です。
その島の貴族でパレルモの領主であるサリーナ公爵が、領民を晩餐に招待するシーンがあります。
ところがいざ晩餐において、公爵とその男性家族は「イブニングテールコート」ではなく「フロックコート」を着ていました。
この映画は、何回も見ているのですが、このシーンが疑問でした。
でも原作『山猫』G•T•ランペドゥーサ著 佐藤朔訳(河出文庫)の日本語訳を読んで納得しました。
「彼はたった一つだけ妥協することにした。明らかに夜会服をもっていないお客たちを困らせないように、彼は夜会服を着ないで、姿をあらわした。」
公爵は、領民達がおそらく「イブニングテールコート」を持っていないであろうことを気にかけ、昼間の服装である「フロックコート」を着て迎え入れたのでした。
つまり、昼は絶対に「フロックコート」を着て、夜は必ず「イブニングテールコート」を着なければいけないガンジガラメの規則やルールがあるわけではないのです。
コミニティー間の同意や慣習として、プロトコールがあるわけです。
日本人である私は、上下関係において上の人が正装をして下の人が略服や平服を着てもそんなに違和感を感じないのですが、欧米において、このシチュエーションでは、横並びが良かったのでしょう。
そこで貴族は、自分の領地でコミニティーの一員である領民を思い、晩餐において「フロックコート」を着て、まわりに合わせたわけです。
もっともこのあと、続きがあります。
招待したブルジョワが、「イブニングテールコート」を着て近づいてくるのです。
「彼は前兆や象徴には敏感だったから、いまや革命が、白いネクタイと黒い上衣を着けて階段を上がってくるような気がした。(中略)夜会服で登場する客を昼間の服装で迎えなければならないのだ。」
サリーナ公爵は、たいへん当惑することになるのです。
ところで、フォーマルウエアの日本語訳は「礼服」です。
直訳すれば、形服、型式的な服、正式な服ということでしょう。
それをなぜ、「礼服」と訳したのでしょうか。
礼は誰に対して行うのでしょうか。
そうです、天皇陛下に対してです。
中島渉氏は、『スーツの法則』(小学館)の中で、国会本会議場における装いについて疑問を呈しています。
それは国会の開会式でのことです。
「天皇陛下はモーニングコートを着用される。しかし、衆参議長以外にモーニングコート姿の議員はいない。天皇陛下は国会に到着されると、衆議院ではなく参議院に向かわれる。これはかつて貴族院だった時代の名残であるだろう。ならばこそ、男性議員はモーニングコートを、女性はアフタヌーンドレスか白襟紋付を着用するのが礼というものではあるまいか。」ということを書いていました。
なるほど欧米の事情通にして洋服も熟知している中島氏らしいもっともな意見ですね。
しかしながら、もし日本の国会議員の方々が、天皇陛下と同じ格好ではおそれ多い、そういうことは、はばかられる、という思いで平服であるスーツを着ているのだとしたら、それはそれで日本人のメンタリティとして理解できます。
元々日本において、礼服は身分を表すものだからです。
そうです、ここでのズレも、欧米人のフォーマルウエアに対する考え方と、日本人の礼服に対する捉え方の違いを表していると思います。
明治時代から続くパワーゲーム問題
他にもドメスティックルールが作られていった理由として、明治政府と地方とのパワーゲームがあったことが考えられます。
明治5年当時、下級武士出身の大久保利通や木戸孝允ら明治政府での要人たちが、旧藩の殿様をさしおいて和服での大礼服を着ることがはばかられたということが考えられます。そういう意味では下級公家出身の岩倉具視も同じ思いだったのではないでしょうか。
こういうパワーバランスをひっくり返すべく、洋式礼装による大礼服や通常礼服の決まりごとを東京の政府が中心となってつくりたかったのかもしれません。
地元に帰れば、かつては旧藩主の家来であったかもしれないが、今では東京で天皇の朝臣です。
中央政府としてイニシアチブを取りたかったはずです。
洋式礼装の決め事は、明治政府にとってもパワーゲームのツールになっていったという事も考えられます。
何にしてもこの国では140年以上も前から洋装礼服による昼と夜の区別の問題を引きずったまま現在に至っていることになります。
テールコートのその後
1850年代以降、「テールコート」のうち「イブニングテールコート」は夜着ると映える色や素材を取り入れて夜会服に進化し、現在にまで至ってます。
そして、もう一つの「テールコート」である大礼服は、引き続き昼間でも着られていました。
しかし第二次世界大戦後、日本において、大礼服は廃止になりました。
いっぽうヨーロッパにおいては、少なくても20世紀の終わり頃までは、王族の結婚式において、詰襟の軍服で、裾が燕尾型の正装を新郎と親族が日中着用していました。
ちなみにそのときの男性の列席者達は、モーニングコートでした。
中野香織氏の『スーツの神話』(文春新書)に「スーツ下剋上の法則」が出てきます。
それによると、「フォーマル・ウエアの王者として全盛期を謳歌した服は、あとから出現するカジュアルな服にその座を奪われてきたのである。」とあります。
年月が経つとフォーマルウエアは廃れて、本来カジュアルだった服が正装に昇格する、そういう歴史が洋服にはあるということです。
その結果なのでしょうか、日本において大礼服は廃止になり、通常礼服の燕尾服(イブニングテールコート)が格上げになり、大礼服の跡を継ぐことになったと考えられます。
燕尾服(イブニングテールコート)の話を整理します。
国際的には、1850年頃から夜(イブニング)の正礼装になりました。
日本国内においては、1950年頃から昼夜を問わず最上級の礼服になり、現在に至ってます。
日本の新郎は何を着る
フォーマルウエアを着分けるポイントは、その1の昼と夜、その2の式典と宴、そして日本国内限定ですが、その3の行事の大小、この3点は、すべて正しかったことになります。
だからといって、今後もこのままでいいのでしょうか?
そろそろ結論を出したいと思います。
これからの日本において、日中の最上級の礼服は何が正しいと思いますか。
例えば、午前中の結婚式において、新郎は何を着るのが相応しいでしょう。
日本での最上級の礼服である燕尾服(イブニングテールコート)がいいですか。
それとも、貸衣装屋さんによくある白かシルバーのフロックコートですか。
やはり私は、その1の、モーニングコートが正しいと思います。
ただし、貸衣装屋さんが、半分コスプレのつもりでカラフルなフロックコートを貸し出すくらいなら、いっそのこと貸衣装屋さんには、「テールコート」(裾が燕尾型のコート)の初期型を、復活させて貸し出して欲しいと思っています。
「テールコート」なら、その3で説明した、日本において明治から始まった洋装150年の歴史を、肯定できます。
なんといっても、詰衿型の大礼服は、カッコイイですよね。
ただし、詰襟は軍服や戦争を連想させるので抵抗があるのなら、開衿型のダブル前もいいと思います。
上着の色は本来なら、黒またはチャコールグレイがいいのでしょう。
でも個人的には、紺も好きです。
トラウザースは思いきって、ベージュから白色にします。
そうです、これこそ燕尾服のルーツであり19世紀初期の紳士のスタイルなのです。
ファッション関係の方ならボーブランメルの肖像画のスタイルといえば分かっていただけるかと思います。
これならヨーロッパの人達が見て「レトロですね」と思われるかもしれませんが、「夜会服を日中着るのはおかしいですよ」、とはいわれないでしょう。
意味づけとしては、日本は19世紀に開国し西欧文明を取り入れてきました。
その当時の決め事や気持ちを今でも大切に守っている、というのはどうでしょう。
「テールコート」の歴史は長いので、19世紀の前半と後半で若干ディテールが違いますが、それでもある程度は、スジが通るかなと思います。
ただし、懐古趣味になりすぎないことが大切です。
そのためには、シルエットに今の時代らしさを取り入れる。
スカーフやウエストコートの色や柄に自分らしさや、今の時代を象徴するものを取り入れる。
ブーツは、さすがにやりすぎでしょう。
単なるコスプレにしないことです。
明治のノストラジーを出しつつ、シルエットと小物で今の時代と自分のアイデンティティを表現できたらカッコイイですよね。
ところでこれって、クラシックなスーツをクラシックな着方だけでコーディネートすると、間違ってはいないけど、洒落っ気がないのと同じことですよね。
今を感じさせる素材や色を、バランス良く取り入れ、組み合わせて着こなしをする。
服を着こなすということは、決められたルールの中で、コーディネートを楽しむということではないでしょうか。
※参考文献
小川直子 『フロックコートと羽織袴 礼装規範の形成と近代日本』(勁草書房) 2016年
G•T•ランペドゥーサ 『山猫』 佐藤朔訳 (河出文庫) 2004年
中島渉 『スーツの法則』(小学館) 2006年
中野香織 『スーツの神話』(文春新書) 2000年
※参考映画
『山猫』 Il Gattopardo (1963 イタリア&フランス)
監督:ルキーノ・ヴィスコンティ
出演:バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ
セビロの未来予想図 お台場仕立て
セビロの未来予想図
スーツのお台場仕立て
お台場とは
幕末、黒船襲来に備え砲台を設置する為のお台場(人工島)が東京湾に数カ所作られました。有名なのは東京都港区に地名が残っていますが、実は横浜にも勝海舟が作った神奈川台場がかつてありました。残念ながら現在は周りを埋め立てられて公園になっています。
しかし当時の横浜の地図を見ると陸地から台場までの道のりが、昔ながらの“スーツのお台場仕立て”に形がよく似ているよな、と多少のこじつけと地元への贔屓を自覚しつつそう思っています。
お台場仕立てとは
さて、スーツのお台場仕立てですが、これはジャケットの内ポケットの周りを表生地で囲う形状のことです。名前の由来は諸説あります。お台場(人工島)に形が似ている、そのお台場にあった土塁や砲台に似ている、そこまでの道のりに似ている、などです。
お台場仕立ての外観は大雑把に分けると二種類あります。
一つ目は最近主流の剣先台場で、三角台場、ペン台場、ベース台場などメーカーによって呼び名も様々です。形状は継ぎ目がある切り台場になっており、1990年頃にはすでに比較的高額なイタリアのメーカーに多く採用されていました。最近では、イタリアン台場とも呼ばれています。
二つ目は本台場で、丸台場、R台場などとも呼ばれています。この昔ながらのお台場の形状は、継ぎ目がない一枚台場になっており、長所としては内ポケットに物を入れても型崩れしにくく、シルエットにおいては胸のボリュームを出しやすいのですが、反面短所は、硬い、重い、といったこともあり最近はあまり見かけなくなりました。特に夏場は、着ると多少蒸し暑くなることもあり敬遠されがちでした。
お台場仕立ての今までの歴史
この昔ながらの本台場のルーツは、当然英国であろう?いや、実はナポリスタイルだ!いやいや、それはイタリアン台場のことだ‼︎と諸説入り乱れています。
まあどちらにしてもサヴィルロウのテーラーの職人もイタリアのサルトリアで縫ってる職人も、多くはイタリア南部の出身者(主にシチリア人)だったはずです。つまりイタリア南部の職人が強く影響していることに間違いはなく、だとすればナポリスタイルと呼んでも差し支えないのでしょうか?
しかしながらこの頃のナポリのサルトリアの顧客の多くの英国人だったはずです。そうなってくると地域のスタイルでは括りきれないのではないか。
丁々発止のやり取りがありましたが、最近ではナポリスタイル説に傾きつつあります。ナポリのサルトは柔らかい生地を好みますが、そうすると仕立てるとき立体感を出すのにお台場仕立ては有効だったということかららしいのです。とどのつまりスーツのディテールの多くはナポリに源流があるということになります。
現在におけるお台場仕立ての必要性
さきほど本台場の着る側の長所をいいましたが、実は作り手にもメリットがありました。それは裏地の取り替えが容易なことです。ただしこれは今となっては昔の話で、裏地が丈夫になった現在では取り替えることも皆無になりました。
2000年頃、ミラノのサルトが作った最高級仕立てのスーツには、やはりお台場が付いていませんでした。サルト本人に話を聞くと、これがいいと思ってそうしているだけで、もちろん顧客からの要望があればお台場を付けることは可能だ。ただし軽量化とは逆行するけどね、とのことでした。特に厚手の生地を使うとき、お台場による重量超過は避けられない、ということもあったかもしれません。
にもかかわらずこのディテール、近頃復活の兆しが見えてきました。それは機能性や実用性といったことではなく、本格仕様に見えるこだわりのデザイン、表生地を贅沢に使用した形、醸し出るワンランク上の高級感、などといった“装飾”としての意味合いからなのです。既製品の売り手にとっては原価の高騰を招くリスキーな一面もありますが、イージーオーダーの店舗では売れ筋のオプションになっています。
そんなお台場にこだわるのはほとんど日本人だよ、という意見もありますがそれならそれで大いに結構なことだと思います。繰り返しになりますが、こだわるのがほとんど日本人なら、これを日本人の個性や着こなし、日本製スーツの特徴やスタイルに昇格させようではありませんか。
江戸の町民は和服の裏地に絹を使用して見えないところで贅沢をしましたが、現代人もスーツの見頃にお台場を付けて粋を気取ろう!さらに言えば若干だが耐久性が増し長持ちする為、地球環境に優しいエコロジーも演出できます。個人的には冬物のジャケットに本台場を付ければ暖かさも少しばかりは増すだろうと思っています。
これからのお台場仕立ての存在意義
現在のスーツには、今となっては実用性のないデザインが他にも数多く存在します。その中にあってお台場仕立てが“装飾”として残っているのは、突き詰めれば、背景に歴史があり、それに傾倒する服好きが、作り手と着る側の両方にいるということです。
自己満足の世界で大いに結構ではないか。こういう人達がいるかぎり、こだわりのディテールとして生き続けることでしょう。
ただし!念の為付け加えると、お台場仕立てに限らずこの類のディテールを、これ見よがしにするのだけはやめていただきたい。チラリズムだからカッコいいんです。
まあ、それもチラ見せする機会があればの話なんですが。
セビロの未来予想図 スーツの誂え方
セビロの未来予想図
スーツの誂え方
スーツの購入方法
現在、スーツを購入する方法は、大まかに分けて二通りあります。
一般的なスーツの購入方法は、既製服のスーツを買うことです。以前は「吊るし」といっていました。
試着してイメージを確認しやすく、パンツの裾上げが終わればすぐに着ることができます。ただし、サイズやデザインは出来上がっているので変更はほぼできません。
それに対してオーダースーツは、かつて「注文服」とも呼ばれてました。最近急速に増えてきましたが、もともと昭和のはじめまでは、注文してスーツを作るのが主流でした。納期は、工場の混み具合やオーダーを受けた職人のやり方によって、7日から40日くらいとマチマチです。しかし、寸法は自分に合うサイズで出来上がり、デザインも概ね要望を取り入れてもらえます。
オーダースーツの種類
またオーダースーツは、測り方や仕上げ方がメーカーや職人によって千差万別なのですが、おおむね三種類に集約することができます。
・一つ目のパターンオーダーは、既製品の型紙を使いながらもジャケットの袖丈、着丈、ウエストのダシ、ツメと、パンツの裾上げ、ウエストのダシ、ツメができます。
・二つ目のイージーオーダーは、それ用の型紙があるんですが、寸法補正範囲がパターンオーダーよりも広いケースが多く、加えて怒肩、撫肩(下肩)、出尻、平尻など体型補正で、できることが大幅に増えます。
・三つ目のフルオーダーは、お客様に合わせて型紙を作りほぼ手作業で仕上げます。フルハンドとも言います。仮縫いがあり、サイズ調整やデザインをより細かく指定できます。
ス・ミズーラとは
1990年代、クラシコイタリアがブームの頃の話です。当時私は、洋服のセレクトショップに勤めていました。その頃、イタリアの仕立て屋やスーツメーカー、メンズブランドなどと協業して、ス・ミズーラ会(イタリア語でオーダー会のことです)を数度企画し、イタリア人フィッターを何人も日本に呼びました。
イタリア人フィッターの測り方は十人十色で、オーダーのやり方も、仮縫い付き、直縫い、イージーオーダー、パターンオーダー、などメーカーによってマチマチでした。
話しは脱線しますが、この当時ハンドメイドクラスなる言い回しが流行っていました。そこで私は、どのくらい手作業をしているのか、仕上がりの時、確かめてみました。
まあこれは私の主観になるんですが、ス・ミズーラ会でのオーダー上がりを検品した限りでは、仮縫い付きや直縫いの仕立て屋が作ったものはおおむねハンドメイド、イージーオーダーとパターンオーダーのメーカーは半分くらい手を使ってました。
でもこれは、北部のメーカーなのか、南部の職人なのかによって違いました。また価格帯によっても幅がありました。
話しはさらに脱線するんですが、この当時、電動ミシンはマシンメイドだが、足踏みミシンはハンドメイドに分類してもいいのではないか?なんて着こなしとは関係ないところで、メンズのファッション雑誌や紳士服業界がドンドン盛り上がっていました。
また、あるクラシコイタリアの工場にはそもそもミシンなんか無い、なんて噂が立ったので、さっそくその日本支社のイタリア人に確かめたところ「ミシンですか、もちろんありますよ。」なんてアッサリ教えてくれました。でも、それじゃあ、日本の紳士服業界は一体何に盛り上がってるんだろう、なんて思いましたね。
話をス・ミズーラ会に戻します。
数人のイタリア人フィッターに、私のつたないイタリア語で聞いた限りでは、イタリア語の su misura は、パターンオーダーからフルオーダーまで、どのレベルのオーダーに使っても差し障りないようだったので、幅広く使っていました。
ところが、その頃の日本のアパレルや小売業の人達は、やっていることはほぼ同じなのに、イージーオーダー、メジャーメイド、カスタムメードなど、なぜか“呼び名”に独自性を持たせようとこだわっていました。でもイタリア人は、どう呼ぶかなんて言葉へのこだわりはないようでしたね。
彼らがこだわるのは“呼び名”ではなく、自分達の“スタイル”に、なんです。
ナポリのフィッターはサイドベンツを選んでもノーベントで上げてきたり、2プリーツでオーダーしたのにプレーンフロントになったりしました。
フィレンツェのサルトは裾幅22cmを指定しても21cmより細くしたほうがいいぞ、と言い案の定20cmで上がってきたりしました。
しかし彼らは、いい加減に仕事をしているのではなく、自分達のスタイル(ハウススタイル、ハウスモデルなどと呼ばれている)が一番だと思ってやっている訳です。
だから彼ら自身の格好をみて「カッコイイな」、「同じような服が欲しいな」、と思ったなら、オーダーすべきなんです。
日本のイージーオーダー
その後、私自身も日本のメーカーのイージーオーダーのフィッターをしましたが、先にス・ミズーラを経験した私にはこのシステムはいかにも日本的だと感じました。
ほとんどの日本のメーカーは、日本のお客様の細かい要望に応えるべく、反身、屈身(伸)の他に、腹グセ、ゴージカット、前肩補正、衿みつのダシツメ、O脚補正にまで対応します。
ここが日本のメーカーの、日本的にスゴイところです。
着る側の心得
しかしながらそれ以前に大切なことを、着る側の人に言いたいんです。
それは着る人にとって大事なことは、何を着たいのか?どこで着たいのか?ということです。さらに言えば、どう見せたいのか!ということに一貫性を持ってほしいのです。
このポイントをしっかりと押さえてほしい。
たとえば、あるメンズショップへ行ったとします。その店は、必ずしもオーダー専門店ではないが、パターンオーダーは可能なショップだとしましょう。
あなたは、その店のハウススタイルがかっこいいと思っている。その店のコンセプトがしっかりしており共感できると思っている。
それなら、あなたは、そのメンズショップのパターンオーダーでスーツを作るべきです。そのスーツは、きっとあなたにとって満足できる一着になるはずです。
2020年、新型コロナウイルスのため、外出自粛が数ヶ月続いています。その結果、今まででは考えられない多くのメーカーやショップが、本腰を入れてオーダースーツをネットで販売しています。今後もネットの比率は確実に上がると思います。
ではオーダースーツのリアル店舗は無くなるのでしょうか。遠い将来は分かりませんが、しばらくはリアル店舗とネットは共存していくと思います。
どちらにしても、今後、売る側は、今まで以上に自分たちのスタイルやテーストを前面に出していくべきです。
また着る側も、自分の好みや目的を明確にして、フィッターと正しい話し合い、つまりビスポーク(Be Spoken)を積極的にしてほしいのです。
これこそ、スーツを誂える楽しみ、ということです。
セビロの未来予想図 はじめに
セビロの未来予想図
はじめに
従来のファッションリーダー達は、「次の時代はスリムだ」「軽量化だ」「カジュアルだ」と、常に新しい流行に乗り続けてきました。
彼らにとって価値観とは、次の時代に乗り遅れないために、流行が次にどうなっていくのかを、一生懸命追い続けることでした。
こうして出来上がった流行の服は、たしかにカッコイイんです。
しかしながら、ガンバって作ったはずなのに、満足感や幸福感をイマイチ感じないのは、どうしてでしょうか。
そこであえて流行に乗らないクラシックな服をベースにして、
現代の服を考えてみることにしました。
そのほうが現代のファッションを俯瞰出来るんじゃないかな、と思えたからです。
基準は、1920~30年代のブリティッシュトラッドにします。
ほぼ100年前のファッションです。
この時代に、おおむね現代のスーツスタイルが出来上がりました。
つまり最初にメンズファッションの良し悪しを判断する基準は、この時代の英国スタイル一択にします!
しかし、その枠の中ででも、自ら選択し行動をしているうちに、
「限られたなかでも主体的に動けば、自由は生まれてくる」と考えたからです。
服の基本と着こなしを、20~30年代のブリティッシュトラッドで学んだら、
それを咀嚼しながら、
そこから50~60年代のアメリカントラディショナル、
さらに90年代から始まったクラシコイタリアへと視野を広げていきます。
ここまできで初めて、自分流の着崩しやアレンジを、楽しむことができるようになります。
進化し続けるクラシック、クラシコジャパンの始まりです。
20世紀の流行はみんなで共有できました。個人のスタイルも同様です。
21世期も流行は起こるでしょう。しかし、個人のスタイルは、流行を取り入れながらも、自分流をつらぬくことになります。
服のマイブームです。
あなたは何になりたいですか?
そのために何を実行していますか?
具体的にどんな成果がありましたか。
そこから自分のスタイルが生まれます!
そうして自分の居場所が出来てくるのです!
このブログを読んで、あなたのスタイルが、クラシックスタイルになったなら、
自分を表現する服に、ぜひクラシックな服を着て欲しい。
それができたなら、
クラシックな服をベースにしながらも
今風、自分流を加えて着こなしを楽しんで欲しい。
その着こなしが、
「あなたらしいね!」
といわれるまでになれば幸いです。